4人くらいに見せたいブログ

ぼくのこと好きな人ってだいたい4人くらい

絵が描けぬバカ、音取れぬバカ(なぜ不得意なのか?その原因について)

絵を描くのが絶望的に下手な人間です。白い画用紙やペイント画面を前にしても、何から手をつけていいかわかりません。

その反面、ぼくには絶対音感があり、それなりに歌が上手な自信もあります(ピッチはあまり正確じゃないけど)。

 

人間が誰しも持つ「得意・不得意」について、その原因を突き止めるのは困難です。そもそも、自分ができることについてわざわざ理由を問い直す必要はないし、できないことについて考えを及ばすのはあまり心地よい時間ではありません。

 

しかし、とりわけ人間の五感に直結する音感や美術的センスなどに関しては、その能力が「ある世界」と「ない世界」を両方イメージすることは難しいのではないでしょうか。ぼく自身、絶対音感がなかった頃に自分がどのように音楽を聴いていたかを全く思い出せません。能力の有無により、五感で捉えられる世界が根本的に変わってしまうのだろうと推測しています。

 

そんなわけで、眼前の世界を変えてしまう「得意・不得意」という現象の一部分だけでも理解できないかと、しばしば考えることがあります。以下は断片的な思いつきをまとめたものです。

 

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自分がなぜ絵を満足に描けないのか、描きかたの工程に即して考えてみました。結論から言えば「頭を使いすぎている」ということかもしれません。

 

たとえば「りんごの白黒デッサン」を描こうとするとき、ぼくは真っ先にりんごの輪郭、言い換えれば「『りんご』と『非りんご』の境目」を厳密に画定したい気持ちになります。物体のフォルムは輪郭に表れているのだから、まずはその線を忠実になぞってから、その内側を""うまいこと""塗り込めば、きれいなデッサンが完成する…という思い込みがあるようです。

また、対象物の色合いを観察しようとするときには、色へのこだわりが出すぎてしまいます。目の前のりんごには、光の当たりかたによる陰影や個体ごとの模様がありますが、その細かな違いを黒1色で表現することができません。

(熟した部分の赤と未熟な白、あとはヘタの茶色の違い、どうやって描けばいいんだろう?いや、そもそもりんごは黒くない!…)

迷いに迷った結果、大体の場合はベタベタ塗りつけるような描きかたになります。

その結果として、色や陰影の濃淡が極めて乏しく、立体感のない絵が完成します。

 

絵が得意な皆さんの場合(もちろんアプローチは人それぞれでしょうが)、輪郭をラフに決めてから、サラサラっと濃淡で立体感を出しつつ形を決めて、一丁上がり!という感じではないでしょうか。

しかしぼくからすると、その方法では「りんごを描いている」という実感が得られません。輪郭もろくに決めずにサラサラ塗っている時間は、ぼくにとってたいそう無目的なものに感じられてしまうのです。得意な人から描きかたを一度教えてもらえば、りんごの描き真似はできるようになるかもしれませんが、モデルが変わればまた元通りのアプローチを取るでしょう。ぼくと他人とでは、物の見えかたが根本的に異なるのかもしれません。

 

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絵が得意な人に対して、「大嫌いなもののイラスト」を描いてもらう実験というのはどうでしょう。

 

推測するに、「絵が得意」になる原因は、「見るスキル」・「描くスキル」にあるのではないでしょうか。

つまり、絵が得意な人は、日ごろ対象物をしっかり見ているから描けるようになる。あるいは、事物を微細に観察せずとも、脳内に鮮明なイメージを浮かべ、それをイラスト化できる技能がある。いずれかの要素が原因となっていそうです。

 

そこで、見るのもイヤなほど嫌いなもののイラストを描いてもらうことで、

・他の絵ほどは上手に描けない→「見るスキル」が重要である

・他の絵と同様に上手く書ける→「描くスキル」が重要である

というように、原因のスクリーニングができるのではないかと考えました。

 

もちろん人によってタイプが異なるとか、2つのスキルが共に秀でているという場合もあるでしょう。嫌がられそうでなかなかできませんが、たいへん興味深い実験です(被験者募集中)。

 

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ぼくは「幼少期の音楽訓練を積まずに絶対音感を習得した」珍しい人種です。

 

これまでの音楽遍歴は、

~小学校中学年:まじめに音楽の授業をがんばる程度

小学5年生:児童合唱を始める(中学3年生でやめる)

中学1年生:吹奏楽を始める(★)

中学2年生:ピアノを習うがすぐに飽きてやめる(合唱コンクールで伴奏はやった)

 

というように、それほど特殊なものではありません。

 

児童合唱をやっていた時代も譜面は読めず、音感はありませんでした(耳で覚えたメロディーをそのまま歌うだけで手一杯)。

★の中学吹奏楽部時代、学校のティンパニに音程ゲージが付いておらず、「これくらいペダルを踏んで出るこの音がド(C)っていうんだな…」というように、音程と音名の照応作業を繰り返し行うようになってから、少しずつ音程が分かるようになり、いわゆる絶対音感や調性の感覚が身につくようになりました。ピアノをかじっていた時期には既に絶対音感が完成していた記憶があります(先生がお試しで調音のテストをやってくれたけど、4和音程度ならばだいたい全問正解だった)。

 

ただし、このティンパニ練習が絶対音感養成につながったと断言することはできません。幼少期に聴いた音楽(CM音楽のような極めて短いものを含む)のメロディーラインを、特に聴き返さずとも、現在まったく同じキーで歌うことができるので、音感の素質は幼少期からあったのかもしれません(訓練どころか音楽自体を全くやっていないので不思議ではあるけど)。しかしとりあえずは「中学に入ってティンパニを始めてから絶対音感が身についた!」と話すことにしています。ティンパニばんざい。

 

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つらつらと書いてみましたが、未だに「音程が分からない」世界について思いをめぐらすことは難しいです。絶対音感を持たない人にとって、音楽はどのように聴こえているんでしょうか。なぜ音程が身につかないのでしょうか。一部分でも分析ができた方はこっそりと教えてください。

あまり関係ありませんが、しばしば体調によって曲の音程やテンポが違って聴こえることがあって面白いです。特に寝起きで聴くと普段と違うなと感じます。これは高等な暇つぶし。